わいは西郷隆盛ごわす。自分の欲は捨てて、民のため、国のために、でっかい志ば持って行動してくいやんせ。

まさに今こそ、西郷隆盛のような人物が希求される時です。私利私欲にまみれた世の中だからこそ、西郷隆盛の行動指針であった敬天愛人の志を持った人物が現れ、人々もそのような人とともに行動できる時代へと変わっていくことを心から願って、ここに、せごどんの歩みを紹介しています。

そのような西郷隆盛の敬天愛人天を敬い人を愛する、という高い志が社会の中に浸透していくことを心から願っています。

それでは、西郷どんの貴重な言葉に耳を傾けてみましょう!

西郷隆盛:薩摩の志士、明治の夜明けを導いた男の物語

皆様、はじめまして。西郷隆盛と申します。このような機会に自分のことをお話しできることを光栄に思います。私の人生を振り返りながら、明治という新しい時代へと日本が進む過程で、どのような思いで行動してきたのかをお伝えできればと思います。

薩摩での生い立ち

私は文政10年11月23日(1827年12月23日)、薩摩国鹿児島城下の清水町で生まれました。父の西郷吉兵衛と母のせいの間に生まれた長男です。我が家は下級武士の家柄で、決して裕福ではありませんでしたが、家族の絆は強く、特に母からは多くの愛情を受けて育ちました。

幼い頃から体格がよく、「隆盛」という名前の通り、周囲からは「どっしりとした存在感がある」と言われていました。しかし、見た目とは裏腹に、実は繊細な心の持ち主でもあったのです。

13歳の時に藩校・造士館に入学し、儒学を学びました。そこで学んだ孔子や孟子の教えは、後の私の行動指針となりました。特に「民を大切にする」という思想は、生涯を通じて私の心の支えとなったものです。

島津斉彬との出会いと成長

私の人生を大きく変えたのは、島津斉彬公との出会いでした。斉彬公は先見の明を持った方で、西洋の技術を取り入れながらも日本の良さを守るという「和魂洋才」の考えをお持ちでした。私は23歳の時に斉彬公に見出され、側近として仕えることになりました。

斉彬公のもとで、私は薩摩藩の改革に携わり、公のビジョンを実現するために奔走しました。この時期に培った経験と人脈は、後の私の活動の礎となりました。

しかし、安政5年(1858年)、斉彬公が急逝されたことは、私にとって大きな打撃でした。その後の薩摩藩の政治的混乱の中で、私は「大久保利通」や「小松帯刀」といった仲間たちと共に、藩の行く末を案じることになります。

奄美大島への流罪と精神的成長


安政5年(1858年)、藩内の政治的対立により、私は奄美大島へ流罪となりました。島での生活は厳しいものでしたが、この時期に私は多くを学びました。地元の人々と交流し、彼らの苦しみを知ることで、「民の声を聞く」ことの大切さを実感したのです。

また、この島での生活中に西洋の書物に触れる機会もあり、世界の情勢についても学びを深めました。流罪は辛い経験でしたが、振り返ってみれば、私を精神的に成長させた貴重な時間だったと思います。

倒幕運動と明治維新への道のり


文久2年(1862年)、私は島から戻り、薩摩藩の重臣として再び活躍することになりました。この頃の日本は、開国か鎖国かで揺れ動いていました。私は「公武合体」という考えのもと、朝廷と幕府が協力して外国の脅威に立ち向かうべきだと考えていました。

しかし、情勢は刻々と変化し、薩摩藩と長州藩が手を組んで幕府に対抗する「薩長同盟」が結ばれることになります。私は大久保利通や木戸孝允(桂小五郎)らと共に、新しい日本の姿を模索していきました。

慶応3年(1867年)、徳川慶喜による大政奉還、そして翌年の鳥羽・伏見の戦いを経て、いよいよ明治維新が実現することとなります。

明治政府での活躍と西南戦争

明治政府では、私は参与や参議として、新しい国づくりに尽力しました。特に廃藩置県や地租改正などの重要な改革に関わり、近代国家としての基盤づくりに貢献したと自負しています。

しかし、明治6年(1873年)、征韓論をめぐる対立から、私は政府を去ることになりました。西洋化を急ぐ政府の方針に対して、私は「日本の良さを守ること」「民の声を聞くこと」の大切さを主張していたのです。

鹿児島に戻った私は、私塾「私学校」を開き、多くの若者を教育しました。しかし、明治10年(1877年)、旧武士の不満が高まる中で西南戦争が勃発。私はこの戦いの指導者として立ち上がりましたが、政府軍との戦いの末、城山にて自らの命を絶つことになりました。50歳の生涯でした。

私の信念と残したいもの

私が生涯を通じて大切にしてきたのは「敬天愛人」という言葉に集約されています。天を敬い、人を愛する—このシンプルな信条が、私の行動の原点でした。

政治や戦においても、常に民の幸せを第一に考え、権力や名誉を求めることはありませんでした。時に周囲からは「西郷どん」と親しみを込めて呼ばれることもありましたが、私はただ日本という国と、そこに暮らす人々のために、自分ができることをしてきただけです。

現代の皆様へのメッセージ

時は流れ、今の日本は私の時代とは大きく変わっていることでしょう。西洋の文明を取り入れつつも、日本の心を失わないでほしい—これが私からの願いです。

また、どのような時代になっても、「人を大切にする」という心は持ち続けてほしいと思います。権力や富、地位よりも大切なものがあることを、忘れないでいただきたい。

私の人生は決して平坦なものではありませんでした。流罪や政治的対立、そして最後は政府との戦いという形で幕を閉じました。しかし、その全てが私の信念に基づいた選択でした。

現代を生きる皆様も、自分の信じる道を歩んでいってください。時に苦難があっても、それを乗り越えることで、さらに強く、優しくなれるはずです。

最後に、私の言葉として伝わっているものの中に「敬天愛人」の他に、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」というものがあります。

私利私欲を捨て、国や人々のために尽くせる人こそが、本当の意味で強い人間だと私は信じています。皆様の人生が、そうした高い志と共にあることを願っています

西郷隆盛より

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